らんがくことはじめ
蘭学事始
- 読了時間
- 約31分
- 文字数
- 15,396字
- 読みやすさ
- 歯ごたえあり
- 表記
- 新字新仮名
三行でいうと
- 江戸の長崎屋に通う医師の杉田玄白は、篤学で知られる前野良沢にどうしても親しめずにいる。
- 玄白は高価な蘭書ターヘルアナトミアを手に入れ、千住骨ヶ原で腑分を見る機会を得る。
- 腑分で絵図を確かめた玄白と良沢は仲間と翻訳を始めるが、やがて二人の志の違いが表れる。
登場人物
- 杉田玄白
- オランダ流の医術を志す医師で、良沢と一座するたびに妙な威圧を感じている。
- 前野良沢
- 中津侯の医官で、長崎に留学したことがあり、オランダの言葉を学ぶ大きな志を持つ。
- 西善三郎
- 長崎屋に詰める通辞で、オランダの文字を読むのは無理だと玄白に説く。
- 中川淳庵
- 骨ヶ原で腑分があるという知らせを受け取り、一座に伝える医師。
- 小杉玄適
- 良沢への知らせの手紙を書き、腑分にも翻訳の会にも加わる医師。
- 平賀源内
- 讃岐侯の浪人で、誰も開けられなかった袋の口をたちまち開けてしまう。
- 岡新左衛門
- 玄白の藩の家老で、蘭書の代金を藩から出すよう取り計らう。
- 虎松
- 九十に近い小吏で、腑分で死体を切り開く役を務める。
読みどころ
この作品の中心には、杉田玄白と前野良沢という二人の学者がいる。良沢は一座を見下すように黙っていて、ときどき鋭い問いを発する。玄白はそんな良沢が気になって仕方がない。意地や見得を恥じながらも、それにこだわらずにはいられない。蘭学の始まりを、知識欲と対抗心が入り混じった人の心の側から描いているところに、この作品の面白さがある。
読むときは、玄白の心の揺れを追いたい。腑分の知らせが来た夜、玄白は良沢を呼ぶかどうかで迷う。そこに玄白の卑しさと誠実さの両方が出ている。翻訳の場面では、何も分からないところから単語を一つずつ拾い上げていく。その手探りの手順が細かく書かれていて、一句が解けたときの四人の喜びがじかに伝わってくる。台詞は武士の言葉づかいで書かれているが、話の筋は追いやすい。
菊池寛は、歴史上の人物の心の動きを描く短編を多く書いた作家である。この作品でも、名高い出来事そのものより、それに関わった人の感情に光を当てている。早く世に出して役立てたい玄白と、どこまでも究めたい良沢のどちらが正しいのか。作品はその答えを決めず、二人の態度をそれぞれ書き分けている。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
良沢も同じターヘルアナトミアを持っていた。骨ヶ原の腑分では、胸の骨や筋も腹の臓腑も、蘭書の絵図と寸分の違いがなかった。帰り道で玄白はこの本を訳したいと言い、良沢が持ち帰った蘭語を手がかりに、良沢、玄白、淳庵、玄適の四人で読むことが決まる。翌日から良沢の家での会が始まり、二日がかりで「眉トハ目ノ上ニ生ジタル毛ナリ」の一句を解く。フルヘッヘンドが堆しの意味だと玄白が気づいた日もあった。一年余りが過ぎると、分からない語に付けた轡十文字は残り少なくなっていた。
玄白の良沢への反感は消え、心から尊敬するようになる。しかし玄白は早く訳して治療の役に立てたいと考え、良沢は蘭学そのものを究めたいと考えていた。四年が過ぎ、玄白は稿を十二回改める。それでも分からない箇所が五つ、難しい箇所が十七残っていた。良沢はそれを解くまでは出版を認めず、二人の議論は一致しなかった。
玄白は自分一人の名で『解体新書』を出す決心をし、良沢に序文を頼む。良沢は、名聞利益のためでなく真の道理を究めるために学ぶと太宰府の天満宮に誓ったと言って断る。玄白は寂しく思ったが、自分の態度を卑下する気にはならなかった。晩年の手記で玄白は、分かるところだけを訳して道筋を示したのだと自分の態度を述べる。そして「世に良沢という人なくば、この道開くべからず」と書き、自分のような者がいなければこの道がこれほど速く開くこともなかったと結んでいる。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日