かれのしょう
枯野抄
- 読了時間
- 約16分
- 文字数
- 7,761字
- 読みやすさ
- 歯ごたえあり
- 表記
- 新字旧仮名
初出: 「新小説」1918(大正7)年10月
三行でいうと
- 元禄七年十月、大阪の花屋の裏座敷で、俳諧の大宗匠である芭蕉が門弟たちに囲まれて息を引きとろうとしている。
- 医者の木節の合図で、門弟たちは一人ずつ羽根楊子に水をひたし、師匠の唇を湿らせて末期の水をとっていく。
- 悲しみに沈むはずの枕もとで、其角や去来たちは自分の胸にわく思いがけない心もちに向き合うことになる。
登場人物
- 芭蕉
- 俳諧の大宗匠と仰がれた芭蕉庵松尾桃青で、五十一歳で花屋の裏座敷に死の床についている。
- 木節
- 医者で、芭蕉の脈をとりながら医師として手を尽くしたかを疑っている。
- 其角
- 大兵肥満の門弟で、一同の中で最も現実的な人物とされる。
- 去来
- 恭謙の名を得た門弟で、伏見から駆けつけて看病の世話を一人で焼いてきた。
- 丈艸
- 法師じみた老実な禅客で、手首に菩提樹の珠数をかけている。
- 支考
- 皮肉屋で知られる門弟で、東花坊とも呼ばれる。
- 惟然坊
- 背の低い僧形の門弟で、死を病的に恐れる性分である。
- 乙州
- 師匠の床のそばで絶えず鼻をすすっている門弟。
- 正秀
- 座敷の隅で畳にひれ伏し、慟哭の声を洩らしている門弟。
- 治郎兵衛
- 伊賀から伴をしてきた老僕で、枕もとで称名を唱え続けている。
読みどころ
師匠の死に立ち会う弟子は、本当に師匠のために泣いているのか。この作品は芭蕉の臨終の座敷を舞台に、その問いを門弟一人ひとりの胸の内から確かめていく。嫌悪、自己満足、恐怖、解放感。悲しみの場にふさわしくない感情が、誰の心にも静かに混ざっている。
読むときは、末期の水をとる羽根楊子が順に手渡されていく流れに注目したい。楊子が移るたびに語りの目も次の門弟へ移り、その人の心の動きが一つずつ明かされていく。正秀の慟哭が不気味な笑い声に聞こえる場面は、張りつめた座敷の空気をよく伝えている。冒頭に置かれた大阪の冬の昼の描写や、辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」も、読み終えてから振り返ると響きが変わる。
芥川龍之介は、歴史上の人物や古い記録を題材にした短編を多く書いた。この作品もその一つで、大正七年に書かれている。芭蕉の最期という誰もが知る出来事を借りて、人の心の奥にある薄情さを冷静に描き出した一編である。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
最初に水をとった其角は、悲しみをほとんど感じなかった。痩せ衰えた師匠の姿に強い嫌悪を覚え、顔をしかめて引き下がる。続く去来は、看病に尽くした自分への満足と、それを恥じる悔恨とに揺れて手がふるえる。涙も出たので、周りの者はその興奮を悲しみのせいだと受けとった。丈艸が唇を湿らせているとき、正秀がこらえていた慟哭が溢れ出し、笑い声のように響く。乙州はその声に誇張を感じて不快に思いながらも、つい嗚咽してしまう。
支考は冷めた態度で水を塗る。門弟たちは師匠の死を悼まず、師匠を失った自分たちを悼んでいるのだと考え、泣く一同を嘲るように見回す。惟然坊は、師匠の次に死ぬのは自分ではないかという恐怖にとらわれ、師匠の顔をまともに見られない。乙州、正秀、之道、木節と水が回るあいだに、芭蕉の呼吸は細くなっていく。
そのとき丈艸の心には、限りない悲しみとともに安らかな心もちが流れこむ。それは芭蕉の人格に長く押さえつけられていた自分の精神が、やっと自由になる解放の喜びだった。丈艸は唇にかすかな笑みを浮かべ、臨終の芭蕉に礼拝する。こうして芭蕉は、「悲歎かぎりなき」門弟たちに囲まれたまま息を引きとる。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日