はぐるま
歯車
- 読了時間
- 約50分
- 文字数
- 24,971字
- 読みやすさ
- 歯ごたえあり
- 表記
- 新字新仮名
三行でいうと
- 知人の結婚披露式へ向かう僕は、レエン・コオトを着た幽霊の噂を聞き、視野に回る半透明の歯車を見る。
- その夜、姉の夫の轢死を電話で知る。僕は東京のホテルにこもって小説を書き、昼も夜も街をさまよう。
- 本の一行も看板も耳に入る言葉も、自分を狙う徴に思えてくる。追いつめられた僕は家へ帰る決心をする。
登場人物
- 僕
- 小説家で催眠薬を手放せず、ときどき右の目に半透明の歯車が見える。
- 姉の夫
- 放火の嫌疑を受けていたが、季節外れのレエン・コオトを着て轢死した。
- 姉
- 三人の子供たちと露地の奥のバラックに避難し、家の物を売ろうとしている。
- T君
- 或会社に勤める知り合いで、この春に巴里の勤め先から東京へ帰ったばかりである。
- 老人
- 聖書会社の屋根裏で小使いをしながら祈祷と読書に精進し、僕に信者になるよう勧める。
- 妻
- 松林の中の借家で、子供たちと僕の帰りを待っている。
- 妻の弟
- 病後の若者で、寝床に起き直ったまま僕らの話に加わる。
読みどころ
この作品で大きな事件はほとんど起きない。僕はホテルで原稿を書き、本屋やカッフェを歩き回るだけだ。それでも、目に入るものが次々に一本の糸でつながっていく。レエン・コオトや黄いろい色や翼が、偶然とは思えない間隔で現れる。僕は「僕の持っているのは神経だけである」と書いた人物で、その神経が拾うものを読者も一緒に拾わされる。何が偶然で何が徴なのか、読んでいるうちに判断がつかなくなる。
各章には「レエン・コオト」「復讐」「夜」など短い題が付いている。一度出たものが章をまたいで形を変え、何度も戻ってくる。翼は商標や巻煙草の銘柄、飛行機に姿を変えて繰り返し現れる。本屋で目にした「一番偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません」の一行も、その後の章まで影を落とす。現実のホテルと夢、記憶が切れ目なく続く語りにも注目したい。僕は自作の「地獄変」や「点鬼簿」の名も口にし、作品の外の現実が物語にしみ出している。
芥川龍之介が亡くなった1927年に発表された、最晩年の作である。初期の『羅生門』や『鼻』のように古典に材を取り、筋を組み立てた短編とは書き方がまるで違う。作家自身の不安を、ほとんど手を加えずに差し出したような一人称の文章である。読みやすい作品ではないが、芥川が最後にたどり着いた場所として一度は読んでおきたい。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
僕は避暑地の家へ帰り、妻子と催眠薬のおかげで二三日は穏やかに過ごす。だがインクを買いに出ると、店にはセピア色のインクしかない。道では半面だけ黒い犬が四度も脇を通り、僕は黒と白の符合を偶然と思えなくなる。妻の実家では、黄いろい翼の飛行機が松の梢すれすれに頭の上を通っていく。妻の弟は、高空の空気ばかり吸う人が地上の空気に堪えられなくなる飛行機病の話をする。
帰り道、僕は砂山のブランコ台を見て絞首台を思い出す。台にとまった鴉は四たび鳴く。知った西洋家屋は焼けて、バス・タッブだけが残っている。自転車の男の顔は姉の夫に見え、逃げ込んだ小みちには鼹鼠の死骸が転がっている。歯車が数を殖やして視野をふさぎ、僕は二階で頭痛をこらえる。目をつぶると、まぶたの裏に銀色の翼が映る。
そこへ妻が梯子段を駈け上り、すぐに駈け下りていく。茶の間で突っ伏していた妻は、「唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから」と打ち明ける。僕はこれを一生で最も恐ろしい経験と呼び、もう先を書く力がないと記す。そして「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」と問いかけて、物語は終わる。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日