ぎゅうじん
牛人
- 読了時間
- 約10分
- 文字数
- 4,730字
- 読みやすさ
- 歯ごたえあり
- 表記
- 新字新仮名
初出: 「政界往来」1942(昭和17)年7月
三行でいうと
- 魯の叔孫豹は亡命の途中で一夜の契りを結び、のちに黒い牛のような男に救われる夢を見る。
- 帰国して大夫となった叔孫のもとへ、昔の女が夢の男にそっくりな息子を連れて訪ねてくる。
- 豎牛と呼ばれたその男は家政を任され、病に伏した叔孫への取次ぎを一人で握るようになる。
登場人物
- 叔孫豹
- 魯の大夫で、若い頃に乱を避けて斉へ逃れ、のちに帰国して魯の朝に立つ。
- 豎牛
- 庚宗の女が連れてきた叔孫の子で、色が黒く目の凹んだ背の曲がった男であり、長じて叔孫家の家政を切り廻す。
- 孟丙
- 斉で生まれた叔孫の長男で、父から跡継ぎと見込まれて鐘を鋳てもらう。
- 仲壬
- 孟丙の弟で、昭公の目に留まって玉環を賜わる大人しい青年である。
- 杜洩
- 叔孫家の宰で、病床の叔孫を見舞いに来る。
読みどころ
夢で自分を救った男が、現実では自分を追いつめていく。この短編は、一人の家臣の悪だくみを描くだけの話ではない。叔孫豹が最後に感じる恐れは、自分を殺そうとする男への恐れとは違うものである。人の力では抗えない何かに向き合ったとき、人はどうなるのか。読み終えたあとも、その問いが重く残る。
注目したいのは豎牛の二つの顔である。目上の者には剽軽な笑顔を見せ、同輩には残忍な仏頂面を見せる。病室への出入りを豎牛一人が握るだけで、親子のあいだの言葉はすべてすり替えられてしまう。冒頭の夢と終わり近くの夢がどう響き合うかも、読み比べてほしい。淡々と出来事を重ねる語りが、静かな怖さを生んでいる。
中島敦は中国の古典に材を取った短編を多く書いた作家で、『山月記』や『李陵』がよく知られている。この作品も『春秋左氏伝』に見える叔孫豹と豎牛の話をもとにしている。漢語の多い引き締まった文章だが、筋は一本道で追いやすい。中島敦の作品を『山月記』の次に読むなら、手に取りやすい一編である。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
鐘ができると孟丙は宴の日取りを父に尋ねようとするが、豎牛は取次がずに出鱈目な日を伝える。宴の鐘の音を聞いた叔孫に、豎牛は孟丙が勝手に跡継ぎ面をしていると告げる。そのうえ斉にいる不義の妻の縁者も来ていると言い添える。怒った叔孫は孟丙を捕らえよと命じ、翌朝、孟丙は屍体となって裏の藪に棄てられていた。仲壬も玉環の件で豎牛に偽られて父の怒りを買い、その夜のうちに斉へ逃げる。
病が重くなった叔孫は仲壬を呼び戻そうとするが、豎牛は使いを出さずに、仲壬は戻らないと答える。問い返した叔孫は、豎牛の唇の端が嘲るように歪むのを初めて見る。翌日から豎牛は叔孫の食事をすべて自分で食べ、空の器だけを下げるようになる。見舞いに来た杜洩に叔孫は剣を指して「これであの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。だが杜洩には熱で錯乱した病人としか見てもらえない。
飢えと疲れのなかで叔孫は、昔と同じく天井が降りてくる夢を見る。夢の牛男は今度は手を貸さず、黙って見下ろすだけである。正気に返ると、白っぽい灯のそばで豎牛が同じ顔で叔孫を見下ろしていた。叔孫は世界の悪意のようなものへの畏れに打たれ、刃向かう気力を失う。三日の後、叔孫豹は餓えて死ぬ。
読んでみる
青空文庫で無料で読む図書カード:牛人本で読む
注や解説の付いた文庫は、言葉の意味や時代背景を確かめながら読めます。
次に読むなら
公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日