かけこみうったえ
駈込み訴え
- 読了時間
- 約27分
- 文字数
- 13,477字
- 読みやすさ
- ふつう
- 表記
- 新字新仮名
初出: 「中央公論」1940(昭和15)年2月
三行でいうと
- 「申し上げます」と旦那さまのもとへ駈け込んだ男が、師である「あの人」を殺してほしいと訴え出る。
- 男は弟子たちの暮らしを陰で支えた苦労を並べ、あの人への恨みと愛を行きつ戻りつ語っていく。
- 香油の一件とエルサレム入りを見て男は決心を固めるが、最後の夕餐の席で心が大きく揺れる。
登場人物
- 私
- 旦那さまに訴え出た男で、もとは貧しい商人であり、あの人より二月おそく生まれた同い年の弟子。
- あの人
- 私の師であり主で、三十四歳になり、多くの弟子と群集を連れて教えを説く。
- ペテロ
- あの人の弟子で、夕餐の席では足を洗われるのを拒む。私からは愚かな正直者と見られている。
- マリヤ
- マルタの妹で、ベタニヤのシモンの家であの人の頭にナルドの香油を注いだ娘。
- 旦那さま
- 私の訴えを黙って聞いている相手。声は一度も出てこない。
読みどころ
この作品は、一人の男が師を売りに来た訴えだけでできている。男は恨みを並べる途中で、誰よりもあの人を愛していると言い出す。そしてすぐにまた殺してくれと頼む。愛しているから売るのか、憎んでいるから売るのか。その答えが一文ごとに入れ替わり、読む側も男の心の動きに引き込まれる。
全編が男の一人語りで、聞き手の旦那さまの声は一度も出てこない。男は話しながら言い直しを重ねる。「あの女が、私からあの人を奪ったのだ」と言った直後に、それも違うと打ち消す。香油の一件やエルサレムへの入場、弟子の足を洗う場面は、聖書でよく知られた出来事である。その出来事がこの男の目を通ると、どう見えるのか。そこに注目して読みたい。
太宰治が1940年に『中央公論』に発表した短編である。句点を挟みながらも息継ぎの少ない語りで、男の興奮がそのまま文章の勢いになっている。声に出して読むと、駈け込んできた男の早口がよく分かる。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
祭司長たちは、あの人の居場所を知らせた者に銀三十を与えると決めていた。私は自分の手で売ると決める。ところが祭りの夕餐で、あの人が弟子たちの足を順に洗い始める。その姿を見て、私は売ろうとしていたことを悔い、あの人を連れて逃げたいとまで思う。だが足を洗い終えたあの人は、目をつぶって「みんなが潔ければいいのだが」と言う。自分のことだと受け取った私は、ふたたび復讐の鬼になる。
あの人は「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」と言い、一つまみのパンを私の口に押し当てた。私は料亭を走り出て、旦那さまのもとへ駈け込んだのである。私はあの人がゲッセマネの園にいると告げ、今なら弟子のほかに誰もいないと案内を申し出る。
語るあいだも、私は夜に啼く小鳥の声をうるさがる。差し出された銀三十をいったん断るが、すぐに受け取ると言い直す。「私は所詮、商人だ」と言い、はじめから少しも愛していなかった、金が欲しくてついて歩いたのだと言い張る。最後に私は、自分の名を「イスカリオテのユダ」と名乗る。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日