かせいのうんが
火星の運河
- 読了時間
- 約10分
- 文字数
- 4,679字
- 読みやすさ
- ふつう
- 表記
- 新字新仮名
初出: 「新青年」博文館、1926(大正15)年4月
三行でいうと
- 「私」は音も匂いもない果てしない大森林の下闇を、行き先も分からないまま歩き続けている。
- 生まれてから幾度も味わった恐れの中で薄明かりが見えるが、そこは森の真ん中にある丸い沼だった。
- 沼の岸で自分が豊満な乙女の肉体になっていると気づいた「私」は、沼の中の岩に上って踊り始める。
登場人物
- 私
- 暗い大森林をさまよう男の語り手で、沼の岸で自分の体が豊満な乙女の肉体になっていることに気づく。
- 恋人
- 夢の中で「私」がなった肉体とそっくりの体を持つ女で、うなされる「私」を揺り起こす。
読みどころ
この作品には筋らしい筋がほとんどない。暗い森をさまよう恐怖と、森の奥で見つけた異様な美しさが、夢の感覚のまま語られる。恐ろしいのにどこか懐かしい。その矛盾した気持ちがふくらんでいく過程を、読者は語り手と一緒にたどることになる。
読むときは、音も匂いも手ざわりも消えて、目に見えるものだけが残った世界の描き方に注目したい。森の大木は観兵式の兵列にたとえられ、枝ぶりは獲物に飛びかかろうとする蜘蛛にたとえられる。比喩を一つずつ追っていくと、見慣れた景色が少しずつ見知らぬものに変わっていく。後半になると、描写の中心は景色から語り手自身の体へ移る。
江戸川乱歩は探偵小説で知られる作家だが、この作品には謎解きも探偵も出てこない。1926年に『新青年』に発表された短編で、乱歩の幻想的な作品の一つとして読める。短いので、一息に読み通すと夢の手ざわりがよく伝わる。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
踊り狂いながらも「私」は何か物足りなさを感じ、この景色には紅の色が一つ欠けていると気づく。森には椿の一輪も咲いていない。そこで「私」は自分の爪で全身にかき傷をつけ、体は流れる血で真っ赤に覆われる。沼の水面に映るその姿を、「私」は火星の運河のようだと思う。そしてまた狂暴な踊りを始め、蛇や尺取虫やみみずのまねをして、命の限りあらゆる曲線を演じる。
やがて遠くから「あなた、あなた、あなた」と呼ぶ声がして、体が地震のように揺れる。目を開けると恋人の顔が鼻先にあり、「私」は「夢を見た」とつぶやく。汗をびっしょりかいた「私」に恋人が怖い夢だったのかと尋ね、「私」は「怖い夢だった」と答える。
「私」は恋人の頬を見つめる。頬の産毛や小鼻の脇の脂の玉、毛穴までが大きく見える。その頬は巨大な天体のように、少しずつ「私」の視界を覆いつくしていく。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日