にほんふどうき
日本婦道記
墨丸
- 読了時間
- 約31分
- 文字数
- 15,006字
- 読みやすさ
- ふつう
- 表記
- 新字新仮名
初出: 「婦人倶楽部」大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年9月
三行でいうと
- 正保三年の霜月、五歳のお石が鈴木家にひきとられる。陰口を哀れに思った平之丞は、墨丸という呼び名を選んだ。
- お石は歌と琴に才をみせ、美しく育つ。花見の宴で見違えた平之丞は、母を通してお石を妻に望む。
- お石は琴で身を立てたいと言い、縁談をかたくなに断る。父の惣兵衛が急死したあと、素性も知れないまま京へ去る。
登場人物
- お石
- 両親を亡くし、五歳で鈴木家にひきとられた娘で、色が黒いので墨丸と呼ばれた。
- 平之丞
- 鈴木家のひとり息子で、お石を初めて見たときは十一歳だった。
- 惣兵衛
- 平之丞の父で、江戸詰めの年寄役から国老格の吟味役となり岡崎へ帰る。
- 松井六弥
- 同じ老職の家の少年で、平之丞ともっとも仲がよく、お石にもよく贈り物をした。
- そで
- 六弥の妹で、花見の宴で手のこんだ曲をみごとに弾いた。
- 検校
- 鈴木家に四年あまり滞在し、お石に琴を教えた盲目の名手。
- 榁尚伯
- お石が稽古にかよった和学者で、京へのぼる話を母と平之丞に説いた。
読みどころ
お石はなぜ縁談を断り、あれほどあっさりと家を去ったのか。この問いが作品を通して残る。色が黒く、見た目のみすぼらしかったみなしごが、人の気づかないところで丁寧に働く娘に育つ。その姿を、平之丞は長い年月をかけて少しずつ見直してゆく。
語りは平之丞の側に立っており、お石の胸の内はほとんど語られない。そのぶん、何気ない場面が後で重みを持つ。お石が文鎮を貸してほしいと頼む場面や、検校の言葉を聞いた父が黙りこむ場面、花見の席で交わされる藩の噂話がそうだ。少年の平之丞が「黒いから墨丸がいい」と言いだした呼び名がどう扱われてゆくかも見ておきたい。百姓が抜き捨てた稗で団子を作る挿話からは、お石の人柄がよく伝わる。
『日本婦道記』は、山本周五郎が武家の女性を主人公に書き継いだ短編の連作で、『墨丸』はその一編だ。舞台は江戸の初め、水野家が治める岡崎である。藩の世継ぎをめぐる出来事と一家の暮らしが重なり、一人の女性が選んだ生き方を描いている。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
平之丞は二十七歳の春に、六弥の妹のそでを娶る。二人の子が生まれるが、そでは嫁いで六年めの秋に、三人めの子を身ごもったまま世を去る。平之丞は再婚しなかった。三十二歳で世子忠春の側がしらになったときには、讒訴を受けて老臣の鞠問にかけられる。疑いはすぐに晴れ、のちに国老となった。
五十歳の秋、京からの帰りに平之丞は八橋の古蹟を訪ねる。休ませてもらおうと立ち寄った家にいたのはお石だった。お石は琴の師匠にはならず、二十年のあいだ土地の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた。家を出た理由を問われ、お石は自分が小出小十郎のむすめだと明かす。小十郎は世子の血筋の噂を信じて諫言を繰り返し、生涯蟄居の咎めを受けた日に切腹した。重科を受けた者の子が妻になれば、素性が知れたときに鈴木家の家名にかかわる。お石はそう考えて嫁がなかった。平之丞は讒訴を受けた日のことを思いだし、言い返せなくなる。
お石は十三歳で父の遺書を読み、自分の身の上を知ったと話す。そして紫の袱紗から、あの年に借りた翡翠の文鎮を出してみせる。好きになってはいけない代わりに、平之丞の大事な品を生涯の守りにしたかったと言う。辛かったろうと問われ、お石は「はい、ずいぶん苦しゅうございました」と答える。日が昏れ、お石は泊まっていって墨丸と呼ばれた頃の話をしようと誘う。平之丞は「ずいぶん遠い日のことだ」と答え、庭の老松に風がわたる。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日