せそう
世相
- 読了時間
- 約1時間4分
- 文字数
- 31,941字
- 読みやすさ
- 歯ごたえあり
- 表記
- 新字新仮名
初出: 「人間」1946(昭和21)年4月号
三行でいうと
- 敗戦の年の師走、小説家の私は昔の千日前の事件を書きかけたまま、筆が少しも進まずにいる。
- 酒場のマダムに聞いた十銭芸者の話や阿部定の公判記録など、書けなかった題材を次々に思い返す。
- 深夜、小学校の同級生の横堀が寒々しい復員姿で訪ねてきて、大阪駅で野宿した日々を語りはじめる。
登場人物
- 私
- 大阪の盛り場と庶民を書いてきた小説家で、戦前には著書を風俗壊乱の理由で発売禁止にされた。
- 楢橋廉吉
- 七人の家族を養う五十四歳の国民学校の訓導で、師走の夜に私の家へ煙草を売りに来る。
- マダム
- 清水町のスタンド酒場「ダイス」の女主人で、もとは宗右衛門町の芸者だった。
- マダムの妹
- 店の隅で黙って洗い物をしていた少女で、いつも固い表情をしている。
- 海老原
- 左翼くずれの同盟記者で、小説は書かずに批評だけをする文学青年である。
- 照井静子
- カフェ美人座の女給で、二十四歳の私が胸を焦がした相手である。
- 天辰の主人
- 雁次郎横丁の天婦羅屋の主人で、私に阿部定の公判記録を貸す。
- 横堀千吉
- 私と小学校で同じ組だった散髪職人で、保証人になった私に何度も不義理をしている。
- 家人
- 私と暮らしており、私がグロテスクでエロチックな小説を書くのを嫌がっている。
読みどころ
敗戦直後の大阪で、小説家は何を書けばよいのか。この作品はその迷いを正面から描いている。書きかけの殺人事件の話も、戦前に温めた題材も、焼跡の世相の前では古びて見える。それでも語り手は昔の夜を思い出し、目の前の人の話に耳を傾けてしまう。
一つの筋を追う小説ではない。訪ねてくる客の長話に、戦前の酒場や美人座の思い出、阿部定の公判記録が挟まって次々に移っていく。地名や値段や時刻が細かく書き込まれ、闇市のカレーライスの盛り方まで目に浮かぶ。語り手が自分の文学観を語っては、すぐ自分の詭弁を恥じる。その照れくさい調子にも注目したい。
織田作之助は大阪の庶民と盛り場を書き続けた作家である。『世相』は戦後の1946年に雑誌『人間』に発表された。作中で発売禁止になる『青春の逆説』は、作者自身の著書の題でもある。小説家が書けない自分を書いたこの作品は、作者の創作の舞台裏をのぞかせる一篇としても読める。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
翌朝、私は横堀に冬の衣類と二百円を渡す。横堀は街頭博奕のサクラを見抜いたから今度は儲けると言い残し、素足のまま出ていく。私は横堀をモデルにした小説を書きはじめ、筆はすらすら進む。しかし、それは処女作以来の放浪のスタイルを繰り返しているだけだと気づき、また書けなくなる。私は「いや、今日の世相が俺の昔の小説の真似をしているのだ」と不遜に呟いてみるが、新しいスタイルは見つからない。
大晦日、私は材料を探しに闇市へ出かける。歌舞伎座横の横丁に人だかりがあり、覗くと小ざっぱりした身なりの横堀が街頭博奕の客を呼んでいた。雁次郎横丁の焼跡では天辰の主人に会い、上本町の内緒の料理屋へ連れていかれる。店をやっていたのは「ダイス」のマダムとその妹で、五年ぶりの再会である。マダムは窶れ、自分の体を売らずに暮らしていた。
公判記録は金庫ごと焼けたと主人は言う。そして酔った主人は、細君に疎まれていた頃に一月だけアパートに囲い、黙って姿を消した女がのちのお定だったと打ち明ける。マダムは主人の肩を叩いて「書かれまっせ」と言う。そこへ妹が茶を置いて黙って出ていく。私はその後姿を見送り、書くとすればあの妹かと思う。そして焼跡から吹いてくる風の音を聴いている。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日