ぼくとうきだん
濹東綺譚
- 読了時間
- 約1時間54分
- 文字数
- 56,635字
- 読みやすさ
- 歯ごたえあり
- 表記
- 新字新仮名
三行でいうと
- 小説『失踪』の舞台を探す老作家のわたくしは、六月末の夕方に玉の井の盛り場へ足を向ける。
- 夕立の中で傘に飛び込んできた女お雪の家に上がり、わたくしはそこへ毎夜のように通い始める。
- 身分を隠して通ううち、お雪は借金を返したらおかみさんにしてほしいと言い出し、わたくしは別れを考える。
登場人物
- わたくし
- 語り手の老作家で、巡査には無職の大江匡、五十八歳の独身と答える。
- お雪
- 寺島町の溝際の家で客を取る女で、二十六歳と名乗り、宇都の宮で芸者をしていたと話す。
- 種田順平
- わたくしが書く小説『失踪』の主人公で、退職手当を手に家族の前から姿を消す英語教師である。
- すみ子
- 『失踪』に出る女給で、かつて種田の家に女中として来ていた。
- 帚葉翁
- わたくしと夜の銀座を歩いた古書好きの友人で、昭和十年の春に亡くなった。
読みどころ
老いた作家が、場末の女と過ごしたひと夏を書いた作品である。わたくしは身分を隠して溝際の家に通い、お雪の姿に消えた昔の東京の面影を見る。やがてお雪の思いが自分に向いていると気づく。そのとき何を打ち明け、何を言わずにおくのか。若い女の真情に応えられない老人のためらいが、作品の芯にある。
語り方にも仕掛けがある。わたくしが書きかけている小説『失踪』の筋が本文に挟まれ、作中の種田順平の姿がわたくし自身と重なっていく。玉の井の入り組んだ路地や溝の蚊、夕立と稲妻の描写も細かい。お雪が二階の窓辺で口にする「三月になるわネエ。」の一言を、わたくしがどう聞いたかに注目して読みたい。
永井荷風は、江戸の名残を追って東京の花柳界を描き続けた作家である。本作は一九三七年に『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に連載された。本編の後には『作後贅言』が付いている。銀座の変わりようや世相への批判が、随筆の調子でつづられる。
結末まで知りたい人へ
結末を表示する(ネタバレを含みます)
九月の半ば、三日ぶりに玉の井へ出かけたわたくしは、お雪に袷の代を渡す。これを別れのつもりにして、主人と入れ違いに家を出る。数日後、顔だけ見るつもりで再び訪ねると、家には新しい抱えの女と主人夫婦がいた。言おうとした事情は話せないまま、半時間もたたずに帰る。
彼岸の風雨が過ぎた十五夜の晩、わたくしは雇いの婆から、お雪が病んで入院していると聞く。病名は分からない。十月には寒さが早く来て、夜歩きの季節は終わる。わたくしは物語をここで終えるべきだと書き、再会の場面を足す古風な結末も退ける。二人は互いの本名も住所も知らないまま別れた。稲妻に照らされたお雪の横顔を思い返し、詩を書きつけて本編は閉じる。
後に付いた『作後贅言』では、題の由来と、亡き帚葉翁と過ごした銀座の夜が語られる。最後にわたくしは落葉を掃く音で目を覚まし、逝った人々の墓を掃きに行こうと思う。
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公開: 2026年10月27日 更新: 2026年10月28日